ふるさとの色に添えて | 久住有生氏 CASE #038

仕事、家族、夢、そして故郷。
対峙するものをたくさん持つ人は幸せなのかも知れない。
大阪湾を望む淡路島の東海岸。周囲の喧騒とは少し距離を置くように、その邸宅は広い敷地にゆったりと配置されていた。庭先のココスヤシは海風に葉先を小さく揺らしている。まるでリゾートヴィラのようだ。
海を眺めながら

「ここは昔から馴染みのある集落です。かつては道の両側に民家がぎっしり並んでいました。1995年の震災を経て、徐々に別荘やいろんなお店ができて、関西圏のリゾート地みたいになっています」。
そんな変わりゆく海辺の町に、左官職人、久住有生(くすみなおき)氏の淡路島の拠点がある。
「この家は2年くらい前にはほぼ完成していたのですが、私が東京を拠点にしていてなかなか帰れなくて。今年はまだ2回目なんです。備品も整っていないし殺風景でしょ。今後はアート作品も取り入れようと思っています」。
海を眺めながらデザインやアイデアを練るためのアトリエであり、ゲストハウスでもある。創作のインスピレーションを整える場所だ。作業場も数軒隣にある。
「自分はこの集落で育ったし、母親の実家も道向かいにあります。元々この土地は叔父さんが所有していました。以前、買ってほしいと言われたこともあったのですが、そのままにしていたんです。でも、急にこの辺りに建物が建ち始めて。自分たちの知らない人の手に渡ってしまうのもなんとなく気になって、『じゃあ、買うよ』って言ったら、以前聞いた時から地価がずいぶん上がっていて驚きました(笑)」。
そしてこの家の外壁も内壁も、ほぼ淡路島の土と素材で出来ている。もちろん久住氏が手がけたものだ。壁の色がキーカラーとなり、床や天井、家具などのトーンがおのずと決まっていった。いわばこの土地のカラーが世界観として立ち上がったのだ。


自然と作為の狭間で

久住家は祖父の代から続く左官の系譜。3歳で鏝(こて)を握り、幼少の頃より弟と共に左官の訓練に明け暮れ、家業に従事してきた。
「手伝いとかそういう優しいものではありませんでした。練習をサボると夕食なしだったし、血豆を作りながら一労働者として働いていました(笑)」。
しかしお父様は跡を継がせるためにそうしたのではなく、あくまで左官の楽しさを子どもたちに伝えたかっただけなのだという。

「父は天才肌なので常人には理解し難いところがありました。子どもがあんなに嫌がってたのに気付かへんかったんかと(笑)。それでも高校3年生の時にヨーロッパに行かせてくれて、スペインでガウディの建築を体感し、改めて左官をやりたいと心から思えたのです。でも高校卒業後は父の元で半年しか一緒にやっていません。お前はお前で勝手にやったらええやんと言われ、日本各地の親方の元で修行しました。それ以来、左官を辞めたいと思ったことは一度もありません」。
久住氏はこれまで、伝統建築物の修復から商業施設、教育関連施設や個人邸などを幅広く手がけている。2016年には国連日本加盟60周年記念インスタレーションをニューヨークの国連本部で製作した。現在も世界中の現場を飛び回っている。

第一線で活躍する久住氏の仕事は、自然素材と人間の手仕事の絶妙な均衡の上に成り立っている。空間の中でひときわ目を引く造作のキッチンにも、左官哲学が宿っていた。
「腕の良い職人は、例え暗闇でも鏝(こて)は乱れず真っ直ぐ塗れます。ただ時として綺麗すぎると窮屈になる場合もある。このキッチンはあえて経験の浅い職人と一緒に塗りました。それによってゆらぎのような表情が出ます。ベテランがゆらぎを作ろうとすると作為的に見えてしまいます。イメージに近づける条件を、自然に生み出せる状況を作りコントロールしています」。

人の動作をいかに自然に近づけるか。熟練の技術を持てば持つほど、職人は完璧なもの、隙のない美しいものを作ろうとしてしまう。しかし、そこに落とし穴があるのだという。
「佐官壁の土には砂とか藁とか骨材が入っていますが、削る時に道具が負けて小さな凹凸が生まれます。それを力でねじ伏せようとすると、表情が固くなる。作為が強すぎると理想的な表情が作れない。作為と自然が半々くらいになると、ちょうど良いなと思って作ってます」。
せめぎ合う自然美と作為。自然界にある素材を用いて、自然界には存在しない美を構築する。その“ちょうど良いバランス”が、人を飽きさせない美を感じる空間を生み出すのだ。
Ritzwellもこれまで、木と金属、石と革など、異なる素材の個性を響き合わせ、相反する要素が共存する、絶妙なバランスを追求してきた。整い過ぎていないことで、見る人や時間によって感じ方が変わっていく。その余白のような「ゆらぎ」は、素材だけでなく、構造やフォルムにも現れる。
まさに久住氏が実践する手仕事に宿る哲学と呼応する。
「昔の左官職人は自分で土を取って来て、砂を集め、藁を混ぜ込んで、土の発酵具合も、知識と経験を引き継いできました。でも今は説明書の付いた出来合いの商品を、蓋を開けて塗るだけの作業者になっています。復興住宅などを1棟1棟手仕事で建てていたら供給が間に合わないので効率化とスピードも必要なことですが、人の手で想いのこもった、日本の手仕事はぜひ残していきたい」。


熱意と共鳴

手仕事への深い敬意を持つ彼が、Ritzwellの家具と出会ったのは、友人のブランドエージェント・川原永嗣氏の強烈な“推し”がきっかけだった。二人の出会いは、とある焼き鳥屋での偶然の出会いから始まったという。
「奥の席にいらした3人のうちの1人が知り合いで、合流したら初対面にも関わらず川原さんがグイグイ来て仲良くなりました。数日後川原さんから早速連絡が来て、ご飯いきましょ!と。すごいなこの人って(笑)」。
波長の合う人とはとことん交流する川原氏の、そんな熱量に巻き込まれるようにして親交が深まっていった。Ritzwellと川原氏との縁も同様だ。(川原氏の記事はCASE #029)

「すごいPR力ですよね。頼んでないのにRitzwellの表参道のショールームに連れて行かれました(笑)。土砂降りの夜でした。別件で川原さんにお会いした後に、Ritzwellのショールームはすぐそこにあるからぜひ行きましょうと。彼の思惑通りだったのでしょう」。
そうして導かれたショールームや『手しごと展』の会場で、久住氏はRitzwellの家具作りに初めてしっかりと触れることになる。そしてRitzwellのデザイン性と品質の高さに魅せられ、2階の寝室にはJABARAサイドボードを導入することとなる。
「JABARAは川原さんのところにもあって、僕も以前からいいなと思っていました。手仕事展などでRitzwellの品質を知れば知るほど、やっぱりコスパが良いなと。こんなにも手を掛けているのに、この金額で売っているんだと、正直驚きました」。

自身も職人として、ひとつのプロダクトを創り上げるまでの途方もない労力を知っているからこそ、その真の価値を正確に測ることができる。
「ものづくりってアイデアから試作品作りまで、しかるべき時間がかかります。いきなり完成形ができるわけじゃない。毎回失敗を積み重ねながら、その蓄積された知識や経験が職人にとって最も大切なのです。そしてそれが可能となる環境づくりも」。


さらに彼を驚かせたのは、Ritzwellの家具と顧客への向き合い方だった。
久住氏はナチュラルな色味のナラ材のテーブルを所望し、左官壁にもイメージする空間にも相性が良いということで、ナラ材のIBIZA FORTEのサイドテーブルとリビングテーブルを迎え入れた。
「IBIZA FORTEのサイドテーブルとリビングテーブルを、ウォールナットではなくナラ材にしたいと思ったけれど、カタログにはないし、できないですよねって訊ねたら、確認してくれたのです。淡路の風土には優しい明るい雰囲気が合うと思い、わがままを聞いてもらいました」。
淡路島は久住氏の原点とも言える場所。国内、海外と様々な場所で活躍され、50歳を越えてこの場所に家を建てるということは、とても意味深いもの。妥協をしない家具選びの結果、特注品製作に至った。
職人のものづくりの根底には、生産性を求められながらも決して手仕事の丁寧さを手放さない、研ぎ澄まされた感性が必要なのだ。そのさりげない凄みが、久住氏の生み出した左官壁の空間に心地よく調和していた。


マネジメントの修練として

彼の日常は、左官職人としての顔だけにとどまらない。
多忙を極める日々のなかで、久住氏は過酷なトライアスロンのレースに挑み続けている。腱鞘炎やヘルニア、さらには膝の軟骨再生医療を乗り越えて、なおチャレンジを止めない。
「淡路島は1周150kmなのでアイアンマンレースのバイクパート180kmの練習にちょうど良いのです。今回の帰省中にはバイクでぐっと回ろうと思ってます。コロナ前には海外の仕事が入れば、現地のアイアンマンレースに合わせて出張を組んだりしていました(笑)」。

久住氏がトライアスロンを始めたきっかけは42歳の時。若い職人に“塗る速さ”で初めて負けたことだった。大きな壁面は数十人規模で一気に仕上げる。全体を束ねる親方が最も速く綺麗に塗れる実力を持っていなければならない。彼はそう考えていた。フィジカルを根本から鍛え直すためにトライアスロンの世界へ飛び込んだのだ。
「出張先のホテルを現場からあえて離れた場所に取って、自転車やランで往復することで練習時間を捻出しました。打ち合わせや移動はすべて夜間に行い、そんなマネジメントの修練の成果がそのままレース結果や仕事の出来に繋がる。それがトライアスロンに取り組む理由であり、おもしろさです」。
ストイックに自己を律し、極限まで無駄を削ぎ落とすこと。その研ぎ澄まされた精神性が、彼の生み出す左官壁の静謐な美しさに直結しているのだろう。



パティシエという夢

「もう50代も中ほどですが、父には『まだ仕事しているのか?』と言われます(笑)。父は今も第一線でやれる職人ですけど、45歳で一線から退いています。早いですよね。祖父も同様に早かったです」。
父親は今もやりたい仕事だけを選び、左官壁の普及に繋がる講演活動もこなしつつ、自分のペースで悠々自適に暮らしているという。
その自由な生き方に影響を受けてか、彼自身の組織のあり方も近年大きく変化した。かつては多くの弟子を抱え、会社として大きな現場をいくつもこなしていたが、今は最小限のコアメンバーのみを残し、必要に応じて各地から職人を呼ぶスタイルへと移行している。
「職人を抱えると大きな現場しかできなくなるのです。小回りが効かない。個人邸もやりたいのに、それだと手が空く職人が出てしまう。親方である私が全ての現場に入ることを考えると、それはなんか違うなと違和感を覚えました。だから父は弟子に会社をあげてスパッと引退したのだと今は理解できます。自分のやりたい仕事ができなくなるなら、それも正解だと思います」。

ものづくりの純粋な喜びを見失わないために、自ら組織の枠組みを取り払った。そして今、彼の心の中には、長年果たせなかった夢がある。
「この調子だと引退はまだ難しそうだから、あと15年は頑張って、その後は左官職人になる前に憧れていたパティシエになりたいです」。
照れくさそうに、しかし真剣な眼差しで彼は続ける。
「パティシエの師匠がいるので、いずれ弟子入りしようと思っています。時々左官、それ以外はパティシエをやりながら、サーフィンとトライアスロンと、そんな風に生きていきたいですね。もう十分弟子も育てたし」。
土と向き合い、自然の理(ことわり)と対話を続けてきた左官職人は、いつか甘く繊細なケーキを作り出す日を夢見ている。すべてをやり切った後に待つ、軽やかで余白のある生き方。その未来図を語る彼の目線は、はるか水平線をなぞっているように見えた。
ものづくりの興味深いお話、ありがとうございました。

久住有生
1972年、兵庫県淡路島生まれ。
祖父の代から続く左官の家で、3歳で初めて鏝を握る。高校3年生の夏、スペインでアントニ・ガウディの建築を見て、その存在感に圧倒されると同時に、細部まで計算しつくされた建築の美しさを、左官で表現したいと思い、左官職人になることを決意。日本各地の親方について修行。2009年左官株式会社を設立。現在も日本を代表する左官職人として国内外で活躍する。
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